昭和44年07月06日 特別奉修委員



 「疑いの雲をはらえよ」と「疑いの雲をはらえよ」と言われるけれども、疑いの雲は中々疑っておらんようで疑っておるんですよね。もうそれはあのう無邪気なところもあってもいいですけれどもね、無邪気なところもあって、例えば昨日一昨日でした。あのう北野の江口のあのう堤さんが、今あのうお孫さんが扁桃腺で学校を休んでおるらしい。それで柳川にそのまじないをするところがあるらしいですね。扁桃腺のよう効かっしゃるまじないをするところがある。
 それで今日は家内があの連れてってといいよりますけんで、どうぞよろしくお願いしますち、これで合楽の総代さんですよ。けれどもあんた馬鹿じゃなかのち、まぁ普通言うところですばって、私しゃねそういう迷信的な呪いの様な事でも、お取次ぎを頂かれるその素直さというか、無邪気さに私は実は惚れぼれ致しましてね、はぁそうそりゃおかげを頂くようにお願いしましょうち私は申しました。
 それでそのう私はそういうその、神様をいわばおかげを受ける神様ではおかげは受けられんでも、呪いのおかげを頂かれると言う事は実は神様を疑うとと同じ事でしょう。けれどもこれはんなら隠して行くよりかよか訳でしょうが。もう先生言うとご機嫌悪うなるか知れんけんで、もうこそっと呪いの所に行こう、さぁどこにも参ろうちこういうものをしかしそのあると言う事である。やはり信心者の中にはね。だから今日いうておられるその、疑いの雲を払えよと言う事は実を言うたら大変な難しい事なんでえすね。
 確信心配いらんがのおかげ頂くがの、とこう信じられると言う事ですね。昨日私松岡さんの体験発表を聞かせて、壮年部会でしたから、聞かせて頂きよりましたらあの、二番目の息子の嫁があの、上滝さんの姪です。あの亡くなった上滝さんの姪がいっております。実を言うたら。それがあの東久留米の長い間楽人さんをしておられる。お母さんが。その娘が縁あって二番目の息子にところへ行っておる訳ですがね、「もう親先生私はもう本当に感心する事がある」ち、家の二番目の嫁のには。
 ということは子供がどげん具合の悪かったちゃ、あのうもう私共が夫婦でちょいと早よ医者に電話をかけんのとか、ちょいと呼んで来んのと言うたっちゃですね、お父さんちょいとまって下さい、あのう御神米を頂かせて下さい御神酒下さいち。もう絶対かからんそうですよ。それでもう本当に家庭の教育ちゅうものが、本当に恐ろしいごと思いますというてから、二番目の息子の言う事を誉めよりましたがですね。私は確信した。子供の時からそういう事を教え込まれておる訳ですやはり。
 そんなあのう事を言っておりましたがですね、本当に合楽当たりで信心の稽古をさせて頂いておる総代さん達で、この位だからね、こおりゃやっぱり年期をいれなければいけないな、まぁだ、十年、二十年の教会では本当にまだ若いと。まだ教会になって3年ですから、まぁいいようなもんだけれども、本当言うたら合楽の信心は二十年かかったですけんね。なら二十年の教歴を持った教会。としての私は自覚がね銘々に出来なければいけないと私は思うんですよ。
 まぁそこでね、そのうまぁ色々おかげを頂かせてもらうのですが、そのう合楽の方達は非常にそのう信心に打ち込むとうぬぼれが強くなる。これは例えば大変いい事です。私はうぬぼれが、うぬぼれと言うことはどういう事かというと、先ず「疑いの雲を払えよ」と仰るね。疑うという反対の事ですから信じておるという事ね。例えていうならば先日ですもんね。二、三日前でした。あのうちょうどお昼の御祈念を終わらせて頂いたら、正義さんが参って来ておりますもん。
 ほう珍しいちいうてから、実は今日はそのうまぁ御祈念にお参りする筈じゃったけれども、丁度お客さんが来て遅うなったっと言うて、それからまぁ丁度久富さんもおられた、高橋さんもおられましたから、ここでまぁ氷水を頂かせて貰いながら、まぁ色々話させて頂いて、その時に私があのマダムキラーと言う事を頂くのですよ。それこそマダムキラーちようテレビなんかで聞きようるばってんか意味が分らんけんで、あのう高橋さんに聞かせて頂いたら、まぁいうならばあの後家殺しという意味だそうですよね。
 まぁなんというでしょうかねぇ、と言う様なうぬぼれを持っておると言う事。自分はもう男前なら男前、女に好かれるなら女に好かれるという、そのうまぁいうならば自身を持っておるとこういう事です。私はそれを聞かせて頂いて、それどういう事か分からなかったんです。けれどもやっぱり高橋さんにしろ久富繁雄さんにしろ、その正義さんにしろ、やっぱある意味信心の上でマダムキラーだろうと私は思ったんです。いわゆる自惚れの強い人達だと。
 ですからその自惚れが強いと言う事は、そりゃ信じておると言う事じゃ。たとえば親先生がもうおられなくてはならんごと思うてござると言う事なんかも、こりゃマダムキラーですいうならばですね。だからどの人でもそういう大事にやっぱり方だ私は思うのですね。だからそれは有り難いから、それを信じておるからおかげを頂くんですやはりね。いつか高芝さんがもう十何年も前の話だけど、あのう好かれとると思わずに頼られとると思えち、いう御理解を頂いた事があるですね。
 例えばならあっち当たりも、まぁマダムキラーのだったでしょうと、私が思うのですよね信心の上では、だからそう自分がそのう、信じられておるとか好かれとるとかという、それを信じておるからおかげになるのですよ。だからねそういう程度の、例えばマダムキラーではなくて、そういう程度に自惚れておるのではなくてですね、もっともっと深かぁいね、今日今朝の御理解の頂く意味合いにおいての、そのう大きな自惚れを、一つ持たなければならない。
 丁度偶々話がこの頃から正義さんが、あのここにお庭を作りに見えた先生が、行ってやろうち言うので、これはあのうもう本当にそれこそ皆んなが見に来るくらいに立派なお庭が、もう立派に出来ておったんです。それを全部そりゃもうそれこそ、良い石を沢山集めておりましたから、もうこんな事なかです、その石が良い石ばかりを集めておりますから、なるほど良いお庭が出来ただろうと、それで一遍見に来て頂きたい、頂きたいち言うばってん、いっちょん呼びにこんですからね。
 私の方から今日は丁度幸いじゃけんで、あんたが庭ば見に行こう、それも武井さんがおらんと言うますその嫁御が。今日は浪花節か聞き浪花節かなんか歌ば聴きに行っとる言うもんじゃけん、ほんならおると必ずとこう世話やきますからね、だからもう世話やかんごと為にゃすぐ帰られる為には、一つあのうおらん時なならのいまけんで、今日はなら庭見に行こいうてなら来て下さいと言うて、高橋さんの車に私と繁雄さんと乗って、正義さんはトラックで来ておりましたから、トラックで帰ってあの見せて頂いたんです。
 そおりゃ見事ですね。はぁもう名人があれだけの名石というか、立派な石を使ってるのでからそりゃ見事です。もうあのう縁にに出てから毎朝毎朝、神様にこの庭見るとお礼もうさにゃおられませんと正義さんが言うとりますが、まあ見事に出来て有り難いなぁと私も思わせて頂いたんですけれどね、その庭ば石庭が出来ておるその石庭の後ろにですね、樫木が五、六本バックにこう植えてあるのですよね。そして有り難いなあと言うておるのはあの樫木のところだけを、有り難いと思うておると仰ったそうです。
 こっちの石の庭やら、石、これは自分の信心で出来たと正義さん思うておるです。そしてなら後ろのかしの木のバックが五、六本ある。あれだけは永世を思うとるです。ですからそのうやはりマダムキラー、マダムキラーですよね。親先生が俺がなら出来ん、または俺を信じておると思いこんでおる人でもありますけれどもね、悲しいかなこの全てがあなたのおかげでという事じゃない事です。高橋さんはあのう気付かれたでしょう、後ろへ樫の木のバックがあるでしょう。
 私はあの時にね不愉快ぁになったのはね、それを頂いたからだったです。帰ろうち言い出したのは。しかもあの下の方がこうあの隙いて向こうの方が見えるでしょうが。しこっとらんと。樫の木というのは堅い心と書いてあれです。堅い木と書いちゃる。それはもう私のことなのですいうならばね。だからその何とはなしに親先生がバックにおって下さるけんでと思うておるですよいつも。そればってん自分の生き方でまだ十分おかげが受けられるとこう思うておるね。
 これは例えば石井清さん当たりでもやっぱその一人です。それでならあれだけのおかげを受けておるという事です。しかもタイミングよう素晴らしいおかげを受けておるという事です。例えば昨日のお話の中に、何んか今度ぁ二つの電話を取ったその電話が、ゴムわゴムていう電話だそうです。向こうから買うてくれちちゅうたらしい。ゴムちいう事は560560ちいうわけでしょう。そげな素晴らしいおかげを日常生活の上に頂いておるです。この人は。
 ですからなら合楽の信心は難しくはないていう、月一遍でちゃおかげ頂かれるという事ですよ。おかげだけなら。ばってんね清さんが信念信条しておる事はね、もう合楽の全部の真似が出来んごたるものを持っとる訳です。段々お話をしておる中にですね、ふっとそれも何気なしに言うた事のなかにですね、こういうことをいうんです。もうあのうおかげの秘訣は不足を言わない事だとこういうんですよ。もう私はねもうこれをいわば今日の御理解では確信しておる訳です。
 もう人ならばもうこの事へとへとするような事を却って喜んで受けよるです。そういうものが身についてしもうとるです。正義さんあのあの人には。正義さんの場合でも同じ事がいえます。合楽の信心のこれはという所だけは、まぁ樫の木だけではあってもそれをかんと頂いておるです。そしてここは自分の働きとこう思うておるでしょうけれどもですよね、はぁ本当に合楽の信心な難しいというて、はぁ広い範囲いないですね、それを皆んな自分の物にしていこうとして。
 それこそ、秋永先生が高橋さんに話したと言う、とてもこりゃもう「来年からもう昼のこの信行期間はいっちょ止めようじゃないか、とてもそんな仕事だん出来んぞ」と「朝参ってまた昼参ってこにゃん、晩の会合があれば又出てこにゃならん、月次祭ちいやもう絶対、日に三回参ってこなんならん」。そして私が申しました。はぁ「本気になりゃね秋永先生5辺でん参ってこられるとよちまぁだ。その気にそれに掛かってしまやぁね。ですけん是非とも後からね。
 おかげを受けた暁にたったあん位の信心で、こういうおかげを受けたというおかげを、受ける事が先決だと私申しましたよ。そしていわゆる今朝の御理解になってる訳ですけれどもですね。そういう意味でですね自惚れを持つと言う事ね。清さんでもそういうもう大変な自惚れ家ですね。正義さんでもあげん大人しかばってん大変な自惚れ家です。いわゆるマダムキラーですね。もう自分なもうもう好かれとると。ここにもう神様にちょっと言や神様がの方が、ペロッとさしちゃるちうごたる風なものを持っとる。
 しかしそれが何故かというと、絶対にもうそういう物を今清さんの不足を言うたらね、おかげを頂くこつは不足を言わん事だというのですから、それが秘訣だというんですから、何十年朝参り夜参り、昼参りしよったちゃです、もう不平不足ばっかりいうとって、おかげの頂けれる筈がなかでしょうが。例えばこれをですね、清さんの場合は本当ぅに身につけておるということですよ。正義さんのごたる生活の上に親先生から頂いたこの、これだけはちゃんと商売の上にちゃんと身に付けておるということですよ。
 ですから例えば、なら大きなおかげを頂いておる訳ですけれども、それは大きなおかげと言うてもあの程度ですたいね。けれども私が言うのは本当に限りないおかげに繋がる事の為に、例えばなら、合楽の信心は難しいと秋永先生が言う、その難しいという信心が難しくなかごとなった時ですね、おかげを受けさせておる。どうでもいっちょねそのそこにきのおかげを頂く為に、例えば頂いておるそのマダムキラー連中が頂いておる、そのう自惚れですたいねこれは素晴らしい。
 だからそういう自惚れでも先ず持たなければいけんのですよ。持てなきゃおかげを受けられんです。信じなければ。神様が俺の言う事なら絶対聞きなさる、この事だけはと言う様なもの、それはちゃんともうそれこそもう秘訣を握ってる。小さい秘訣でもそれを握ってる。漠然としよったっちゃね、どげな信心をしておったっちゃその秘訣を握って、自分のものになっていないのでおかげを頂けれる筈がないね。それが一つのまぁ信心の種ともなってですたい。
 一つだけでちゃこの位のおかげじゃけんで、あれも自分のものになりこれも自分のものになると言うてです、いわば平田が言われるように神、公、私と、信心を第一主義にとらせてもらうと言う様なおかげになって来たら、それこそどげなおかげになって来待ゃろうかというね、私はそのう願いを持ってお互い信心をさせてもらわにゃ、先ずねあのう自惚れれるくらいの信心を頂きたいね。
 もうだから自惚れとかさぎの無い者はないといわれてとるけども、そのおかげも繋がらない信心に自惚れておるち、こりゃもう一番それこそかさぎのないの、もう皆んなが持っておる自惚れですから、私が言うのは信心の自惚れですね。また実際おかげを受けておるその自惚れ一つで。それを信じておる事だけで。というような自惚れでならからにゃいけん事は勿論ですよね。
   どうぞ。